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シベリア抑留と補償

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シベリヤ抑留はといえばまさしく戦争犯罪、犯罪国家は旧ソビエトだけではなく、最悪犯は
 
米国でドレスデン無差別絨毯爆撃や数多の日本大都市への無差別絨毯爆撃に廣島長崎
 
への原爆投下です。 勿論病院船攻撃や民間輸送船攻撃も無差別攻撃で戦争犯罪。という事は
 
大切な事は道路交通法規を守る人間が稀なように、国際法規や取り決めも守られた試しは無い
 
と言う事が現実です。 という事はこれからも全く同様で隙を見せたり報復能力を欠如すると
 
「何でもあり」と言うのが歴史の教訓です。さてこれから日本がどうするのか? 
 
  言える事は防衛力の整備の如何に関わらず戦争は起きる、そして防衛能力が少なければ
 
少ないほど早く戦争の被害が生じると言う事です。 だったら残念ですが軍備拡張を続け最後まで
 
生き残るポーカーゲームに参加するしかないと言う事です。 
 
  以下は生半可な平和主義は戦争を招き寄せる物である事を分からせるに十二分な、無条件
 
降伏と戦争放棄がもたらす災いの一つを明示するネットニュースです。 
 

引き揚げ:仲間がバタバタ死んだ-強制労働耐えた平野力さん

「ダモイ、ダモイ」にだまされ 貨車はシベリアへ向かった
 世界記憶遺産への登録を目指すシベリア抑留と引き揚げの資料。引き揚げは舞鶴だけのことではなく、日本全国にかかわりがある。福知山市にも多くのシベリア抑留者が帰郷してきた。半田の獣医師、平野力さん(90)も、その一人。体験してきたことを問うと、「仲間がバタバタと死んでいった。そりゃあ、みじめなものでしたよ」と、静かに語り出した。

 市内拝師の生まれ。現在の岐阜大で学んで獣医師になり、昭和19年10月1日に弘前の連隊へ入隊。10日ほどで大陸へ渡った。関東軍に着任した頃には、南洋で玉砕、撤退が続き、人も物資もどんどん南方へと移していた。満州に残っている部隊は「鉄砲の撃ち方も知らない者ばかりになっていました」。開拓団などから「根こそぎ動員」で現地召集された人たちで補充していたからで、敗戦、武装解除を経てソ連軍の指揮下に入り、シベリアへ移送された日本兵の中には、こうした「つい先日まで開拓民」だった人も多かったという。

 移送は貨車。家畜か荷物のように詰め込まれて満州を後にした。「ダモイ(帰る)、ダモイ。トーキョー・ダモイ」とソ連兵がしきりに言う。「日本へ帰れる」と喜んだ者もいたが、平野さんは「そんなに甘くないはず」と身構えていた。懸念の通り、列車はどんどん北へ向かい、シベリアの荒野へと連れて行かれた。

 「日本海だ、やっぱり帰れるんだ!」と喜んだ者もいたバイカル湖を過ぎ、シベリア鉄道は延々走る。まだ10月になったばかりというのに、外は零下で車内は震えるほど寒い。途中で止まるたび、ソ連兵が「トケイ、トケイ」と時計を奪っていく。抵抗できるわけもなく、されるがまま。これから自分たちがどうされるのか分からない恐怖。

 「戦争でヘトヘトになっていたところへ、抑留でしょ。敗戦で心の支柱が無くなり、これから先の不安ばかり。食べる物もなく、みんな無力感でいっぱいでした」
バラックの収容所 わずかな黒パン分けあい
 送り込まれたラーゲリ(収容所)は馬小屋と同じ粗末なバラックだった。寝床は2段になっていて、凍える夜にも毛布が一人に、ただ1枚。周囲には電気を流した鉄線が張り巡らされ、見張り台からは絶えず自動小銃が見下ろしている。「逃げれば撃たれても文句を言えんということです」

 食べ物といえば、日本人にはなじみのない黒パンぐらい。それも「ソ連兵や上のもん(将校ら)が順にピンハネするから、わたしら兵隊のとこには、わずかしか来ない」。幹部候補生の試験を受け、見習士官で終戦を迎えた平野さんだが、収容所では一般兵扱い。わずかなパン、そして「野菜クズがほんの少し浮いた、顔が写るぐらい透明な」スープをみんなと分け合った。
 
凍る大地と厳しいノルマ
 労働は過酷だった。大地は凍って、ツルハシさえはじき返す。「まるで鉄板に穴を掘るようでした」。それでもノルマは厳しく、「ブストライ(早く)、ブストライ!」「ラボート!(働け)」と監視兵にわめき散らされる。酷寒の中とあって、何度も凍傷になりかけ、仲間と指や鼻をマッサージしあった。

 水が無いので風呂に入れない。顔や歯も洗えない。シラミと南京虫ばかりわいて血を吸っていく。空腹と疲れで、倒れ込むように寝床についても、かゆくてたまらず、眠りが浅くなる。みんなどんどん体が弱り、死んでいった。「年寄りやないんですで。若い、体力旺盛やったもんが、そうやって次々死んでいくんです」

 寝ても起きても頭の中は食べ物のこと。とにかく空腹だった。半世紀以上を経た今も、当時のことは頭から離れない。「宴会やらで、食べきれずにどうしても料理が残りますわなあ。それを見ると、あー、これがあったら、あいつは死なんですんだのに、とねえ」。自身の苦難は気丈に語ってくれる平野さんも、仲間の死については、涙無しには語れなかった。
帰りを待つ家族も必死-無数の岸壁の母たち
 日本人が抑留されている間、帰国を待つ家族らも、じっとしていたわけではなかった。引揚船が入港するたび、舞鶴には「もしやこの船に」と岸壁の母、岸壁の妻が詰めかけた。

 平野さんの母は「わが子が寒い思いをしてるのに」と冬でも衣一枚で過ごした。父は病の体をおして、GHQや日本政府へ働きかける全国運動に参加。こうした人びとの「肉親を返せ」との声が大きなうねりとなって、抑留者の帰国がかなう日が来た。

 収容所内で「帰国が始まるらしい」とのうわさを耳にしても、まだ信用しきれなかったが、日本人を大勢乗せた列車が東へ向かうのを見るようになると「今度は本当だ」と希望がわき、やがて自分たちの番が来た。ウラジオストックから乗り込んだ引揚船の名は「第一大拓丸」。いろんなことがありすぎ、最後まで安心できなかった抑留・引き揚げだったが、舞鶴が近づき、青い松が見えたとき「ああ、やっと帰って来たと思えました」。

 夢にまで見たわが家へ帰宅。そこで母から知らされたのは、平野さんの名を呼びながら3カ月前に父が亡くなったとこと。「親父の死に目には間に合わなんだけど、私は帰ってこられただけ幸せ。シベリアだけじゃない、同級生の多くが南方で、沖縄で、特攻や玉砕してます。絶えてしもた家が近所にも、ようけあります。わしらのようなことは二度と若者に経験させたらいかん。戦争は絶対にいかんのです」
両丹日日新聞社

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