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Channel: 原典聖書研究
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人類相互監視命令

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いきなり物騒なお話ですがこれが実は聖書の基本的な教えなのです。

まあ追って説明しましょう。 じつはこれは今日の私のデボーション(毎朝の聖書黙想)の箇所でした。

じつは日に3章聖書を原典で読んでいます。朝は新約聖書、昼と夜は旧約聖書で70人訳とヘブル語で

朗読しています。今朝はたまたま新約聖書のピリピ人への手紙の第2章でこの4節が気になった

次第です。 以下に原文とその下に直訳とその下に翻訳を記しましょう。

原文 4. μὴ τὰ  ἑαυτῶν ἕκαστοι σκοποῦντες,  ἀλλὰ  καὶ  τὰ ἑτέρων  ἕκαστοι.

直訳 無い その 各々 お互いに 監視しているらは、逆に そして その 他らを お互いに

翻訳  あなた方はそれぞれ自己監視しています。それでは行けませんから他の人を各々が(監視)しましょう。

一般の翻訳 自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。(新改訳1970年版)

 じつはこの翻訳と原文との間には天と地ほどかけ離れた認識の相違が存在しているのです。

何が違うのかはお判りになるでしょうか?  もちろん翻訳者のお偉い先生方は全く認識して

おられないのだと思います。 もしかしたら、よくよく解った上であえて教会成長や自分の利益の為に

わざわざ原文とは正反対に訳しているのかもしれません。

 鍵となるのは二つのギリシャ語です。 その第一は冒頭のメーと言う言葉です。前提条件を前提にして

禁止するという意味合いの言葉で、この場合の意味は自分で自分を監視しているという事がそれに

該当します。

そう、ピリピの教会では一人一人が自律して自分を自分で律した自主独立的な教会が形成されてい

たのですが教会の創立者のパウロはそれでは良くないといっているのです。

もう一つの大事な言葉はスコポスという言葉です。 翻訳では顧みると訳出されていますが

原文の意味は監視するです。 要するに目をはなしていると何をするかあるいは怠惰に堕する

危険が有るので監視するという意味の言葉です。 この語に上を表すエピが着くとエピスコポス

となりいわゆる監督と言う意味の言葉になります。

  エピスコポスというと英国のメソジストなどの監督系の教会を指しますが、そう言う上から目線の

監督という意味はスコポスという言葉にはありません。あくまでも自己監視か相互監視という

下から目線か水平目線の監視ということなのです。

 ということで問題がお判りでしょうか。要するにピリピという新約聖書中の最も規範的教会であっても

信者は自分で自分を監視することは不可能であり、まして優れた信仰者がいて上から目線で他の

信仰者を監視する事も危険なので、お互いが厳しい視線で相互監視してこそクリスチャン生活や

教会活動が健全さを維持できるという事をパウロは語っているのです。

  要するにクリスチャンになって救いを経験したり聖霊に満たされたなどといって自己の顕著な霊的

体験を持っていたとしても、それは監視する立場ではなく相互監視される単なる救われた罪人に

すぎないという厳粛な命令だと言うことなのです。

    そして、これは単に教会内に対する命令ではなく、社会や一般大衆はもちろん為政者や経営者

はもちろん教師や法曹関係者などの聖職者と言われる人びとの判事や検事や弁護士はもちろん

高い教養のある人格者と見なされている医師や大学教授や宗教家はもちろん苛めを放置する

教育現場も教師や教育委員会に任せず対等目線で相互監視が適用されるのは

当然だと言う主張なのです。そしてこの監視は人を苦しめたり制限や恐喝するための

悪意有る監視ではなく正しいあるべき状態を維持推進するための腐敗や劣化を防止し怠惰など

を改善するための良識有る監視なのです。

  昨今のパナマ文書やパラダイス文書に群馬大の医療過誤(犯罪)に警察官や検察の証拠捏造問題

や東芝や神戸製鋼に東洋ゴムや日産にワーゲンなどの経営陣を始めありと人類のありとあらゆる

活動や行為や組織に 「自己監視は危ないので相互監視しろ」というこのパウロの言葉は重要な

示唆を与えているということなのです。

  そして、その最大の責任はやはり社会の基盤となる法律や道徳や宗教に絶大な影響を持つ

人類歴史上の揺るぎない最大の権威と甚大な影響力を持つ聖書という古代の教典の翻訳に

あるということなのです。 この様な間違った聖書翻訳を世に送り出したという嫌疑で、おそらく

最後の審判で神の前に立たされた多くの歴代のキリスト教会の指導者がいの一番に社会の

腐敗や不正の蔓延ヤ放置の責任を問われるのでは無いでしょうか。そして、その事を要請も

要求も探求もしなかった多くのキリスト者が同罪に問われるという事は不可避だという事なのです。


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