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長崎投下直前小倉の八幡で煙幕作戦完遂!

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 いやあ初めて聞きました。 長崎原爆投下の第一目標が八幡製鉄所のある小倉であった事は
 
聞いていましたが3日前の廣島の惨事で煙幕による防空体制が敷かれていたとは初耳です。
 
  小倉周辺は雲が多く爆撃を断念第二目標の長崎にしたという歴史の事実と照らし合わせる時
 
その熾烈さに驚きを隠せません。 また廣島爆撃も京都が当日の天候の視界不良で廣島に変更
 
された事も合わせ見ると歴史という物の気まぐれに慄然とします。
 
  下は、前世紀最悪の戦争犯罪が一度は自然現象で、今一度は防空作戦で方弄されていた事を
 
報じる意味深なネットニュースです。 
 

<原爆>投下の日「煙幕」…八幡製鉄所の元従業員が証言

 
 長崎に原爆が投下された1945年8月9日、米軍爆撃機B29の来襲に備え、福岡県八幡市(現北九州市)の八幡製鉄所で「コールタールを燃やして煙幕を張った」と、製鉄所の元従業員が毎日新聞に証言した。米軍は当初、小倉市(同)を原爆投下の第1目標としていたが、視界不良で長崎に変更。視界不良の原因は前日の空襲の煙とされてきたが、専門家は「煙幕も一因になった可能性がある」と指摘する。【曽田拓、比嘉洋、高芝菜穂子】

 ◇米軍機「視界不良」の一因か

 「煙幕作戦」はこれまで、長崎の被爆者への配慮などから関係者も公言せず、実態がほとんど知られていなかった。だが、戦後69年がたち、当時を知る生存者も減る中、八幡製鉄所(現新日鉄住金)の元従業員ら3人が証言を決断した。

 このうち、太平洋戦争末期に製鉄所構内の堂山製缶工場で働いていた大分市在住の宮代暁(さとる)さん(85)が、実際に「煙幕を張った」と証言した。8月9日は工場隣の木造事務所におり、ラジオで「少数機編隊が北上中」と聞き、その後、敵機襲来の警報と同時に上司に命じられ煙幕装置に点火。大量の黒煙が上がったのを確認して地下壕(ごう)に避難した。B29が去って事務所に戻ると「長崎が新型爆弾で攻撃された模様」という放送があったという。

 宮代さんによると、従業員たちは、8月6日に広島市が「新型爆弾(原爆)」で壊滅したことを広島経由で八幡に戻った同僚から7日ごろに聞いていた。北九州には八幡製鉄所のほか兵器工場などもあり、「次はこっちだと考えていた」と言う。

 工藤洋三・元徳山高専教授が収集した米軍資料によると、原爆を積んだ2機は9日午前9時55分、小倉上空に到達。原爆投下を3回試みたが、目標が「もやと煙」で見えず、第2目標の長崎の攻撃を決定し、10時58分に投下した。

 一方、旧防衛庁の「戦史叢書(そうしょ)」によると西部軍管区司令部は7時48分に警戒警報、7時50分に空襲警報を発令。宮代さんが煙幕を張ったのはこの時とみられる。

 八幡製鉄所構内の煙幕装置は、宮代さん以外の2人の元従業員らも目撃。取材に「半分に輪切りにしたドラム缶にコールタールを入れたものが並んでいた」などと話した。コールタールは製鉄所で出る副産物で、燃やすと黒煙を上げる。

 下関地方気象台(山口県)の記録では9日午前10時は晴れ。関門海峡を隔てた小倉方面は視界がわずかにかすむ「弱い煙霧」だった。北九州市史は、原爆投下を妨げた「もやと煙」について「雲だけではなく、前日(8日朝)の八幡空襲で生じた煙が風向きによって小倉方面を覆った」とするが、根拠は示していない。「空襲後の夕立で翌日まで煙は残っていなかった」との市民の証言もある。

 八幡空襲を調査する藤澤秀雄・長崎大名誉教授(80)は「煙幕が空襲の煙や灰、前日の夕立による水蒸気と混ざり、視界を防いだ可能性はある。広島が攻撃された情報を独自に入手した従業員たちが、警戒を強めていたという事実も注目に値する」と話している。

 ◇69年の苦悩告白

 鉄都・八幡で展開された「煙幕作戦」。小倉への原爆投下見送りにどの程度影響したかは明らかでないが、第2目標の長崎では約15万人が被爆直後に死傷した。作戦に携わった人たちは、語ることもできず、心に重荷を抱えて戦後69年間を生きてきた。

 「煙幕で長崎の人たちに迷惑をかけることになったんじゃないかという気持ちが、ずっとあった」。装置に火を付けた宮代暁さんは、つらそうな表情で話した。長女の工藤由美子さん(56)は「私たちには幼いころから煙幕について聞かせてくれたが、長崎の犠牲者を考えると公言できなかったのでは」と父の胸中を思いやる。

 製鉄所内の発電施設で働いていた福岡県福津市の田坂忠雄さん(92)は、北門付近から構内の線路沿いに並ぶドラム缶の煙幕装置を目撃していた。「日にちは覚えていないが、煙を見た記憶もある」と振り返る。

 学徒動員で構内の工場に通っていた北九州市八幡西区の山元勉さん(85)も「ドラム缶が置かれ、(燃やすための)コールタールが入っていた」と存在を記憶していた。「敵機接近を知らせる警報が鳴ると火をつける」と聞かされていたという。

 もっとも、煙幕作戦自体は「新型爆弾」投下に備え急きょ立案されたわけではなさそうだ。旧日本軍による製鉄所の防空演習文書には、空襲の際に発煙筒などを使い煙幕を張る計画が記されている。

 元従業員らの証言について、長崎原爆被災者協議会の山田拓民(ひろたみ)事務局長(83)は「戦後70年近くになっても原爆を巡る新しい事実が明らかになるのは興味深いし、これからも掘り起こしていく必要がある。煙幕で思い悩まないでほしい。許せないのは、投下地点がどこであれ、あんな爆弾を大勢の市民がいるところを狙って落とそうとしたことだ」と語った。【比嘉洋、高芝菜穂子、曽田拓】
最終更新:7月26日(土)12時54分
毎日新聞
 

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