いやあ、エアーバッグの発明者って日本人だったのですね。しかし、日本の経営者達や
中央官僚達は能がなく、無視して結局特許を失効させて国家の利益をそこっなっているのは
昔からです。 勿論日本だけではありません。今、世界中で大活躍しているパソコンやスマホの
表示方式はGUI インターフェイスと言います。 これは1975年にシリコンバレーのパロアルト
研究所が発明した画面でパソコンを操作する仕組みです。 しかし、当時はメインフレームと
いう巨大なビル一棟を占拠するような数百億円と言うIBMのコンピューターが主流でその操作
は機械語や高級言語に特化したエリート特権階級だけに許された特権でした。そんな時代に
素人が誰でも扱えるパソコンなんて物笑いの種ぐらいにしかならず、こんな物を開発した
技術者は解雇され、当然そんな物の特許も殆ど省みられない始末でした。
それに目を付けたのがアップルの創始者スティブ・ジャブスと言う偏屈な男でガレージで
組み立てたマッキントッシュと言う名前のハソコンにこの特許の切れた仕組みを発明者に無断で
失敬して大当たり、それを妬んだIBM と言う巨大な企業の下請けになっていたビルゲイツが
ステーブジャブスを恐喝して、まんまとステーブジャブスをGUIの特許権者と認めた引き換えに
GUIの使用権を獲得してそれぞれが今のマイクロソフトとアップルと言う世界屈指の巨大企業に
仕立て上げたと言うことなのです。
更に、日本の名古屋にあった小さな電卓会社がCPUというソフトから独立した中央演算装置の
開発を発案し、当時の名だたる半導体産業にアイデアを持ち込んで開発を依頼しても、東芝や
日立や三菱などの半導体企業は門前払いし、やむなく米国ダラスのインテルと言う小振りの企業
に持ち込んで開発し、更に日本の銀行の資金援助も全く得られず仕方なく特許権を譲渡する
条件でチップを委託製造して日本の工場で電卓を製造したと言うのです。 この企業は直後の
過酷な電卓競争であえなく倒産、中央演算装置の全ての権利はめでたくインテルと言う小さな
ベンチャー企業がせしめ、以降世界中の全てのコンピューター市場を席巻して莫大な利益を未来
永劫産み出し続けていくと言う次第です。
お分かりでしょう。 いずこの国の経営者もまた銀行も多くの場合本当に役立つ優れた技術や
革新的アイデアを適切に評価し、それを巨大ビジネスに仕立て上げる資質の無い多くのろくでなし
が企業経営や国家国民の指導者となって特権を行使していても、自身に課せられている責務を
認識したり適切に執行する能力が欠落しているという事はいずこの国でも何時の時代でも
普遍的な真理だと言う事なのです。
下は、世界のほぼ全ての車に装備され、危険防止の要となる先進の革新的アイデアもやはり
責任在る立場の人々に評価されず、発明者が本来受け取るべき名誉や評価や対価を喪失している事
を報じるネットニュースは以下です。
「エアバッグ」生みの親は日本人だった
週刊SPA! 3月21日(土)13時51分配信
「エアバッグ」の発明者が日本人だったことを知らない人は多い。小堀保三郎氏がエアバッグ開発に着手したのは’64年。まさに時代が早すぎた、悲劇の発明だった。
⇒小堀氏が実際に行ったエアバッグ実験の記録写真
「小堀さんがエアバッグを思いついたのは、旅客機に乗っているとき。飛行機がエアポケットに入ると、大きく乱高下しますが、当時はシートベルトが任意で、締めていないことで頭を打つ事故もあったんです。それで、テーブルの上に上体を伏せ、荷物を抱えていると安心だと思い、そこから『自動車も衝突の瞬間に、空気で膨らむものがあればいいのでは?』と思いついたそうです」と話すのは、小堀氏を手伝ってきた工学博士で芝浦工業大学名誉学長、「日本自動車殿堂」会長の小口泰平氏。小堀氏は確たる技術の裏付けのため、東京大学などの教授陣や防衛庁に協力を求め、安全実験を行った。
かくして完成した「衝突時の乗員保護システム」は、衝撃加速度検出装置、エアバッグ、気化ガス発生装置などで構成。エアバッグは運転席、助手席、後席に設け、側面のサイドエアバッグやルーフエアバッグも、当時すでに考案されていた。
「ただ、当時の運輸省はのりませんでした。『アメリカやヨーロッパでやってる?』と前例を聞くんです。特許だからやっているわけがないのに、それで終わり。日本は研究開発で先頭を切っても実用化は遅い。欧米の技術は信頼するのに、です」(小口氏)
結局、エアバッグ関連の特許を世界14か国で取得したが、実用化には至らず、小堀氏は特許の延長手続きを行わないまま自ら命を絶った。エアバッグは特許の有効期限切れ直後に、ドイツで実用化されている。
「小堀さんは『もういい、やるべきことは全部やった』と言いました。今になってその頑張りが人を救っています」
<取材・文/田幸和歌子>
⇒小堀氏が実際に行ったエアバッグ実験の記録写真
「小堀さんがエアバッグを思いついたのは、旅客機に乗っているとき。飛行機がエアポケットに入ると、大きく乱高下しますが、当時はシートベルトが任意で、締めていないことで頭を打つ事故もあったんです。それで、テーブルの上に上体を伏せ、荷物を抱えていると安心だと思い、そこから『自動車も衝突の瞬間に、空気で膨らむものがあればいいのでは?』と思いついたそうです」と話すのは、小堀氏を手伝ってきた工学博士で芝浦工業大学名誉学長、「日本自動車殿堂」会長の小口泰平氏。小堀氏は確たる技術の裏付けのため、東京大学などの教授陣や防衛庁に協力を求め、安全実験を行った。
かくして完成した「衝突時の乗員保護システム」は、衝撃加速度検出装置、エアバッグ、気化ガス発生装置などで構成。エアバッグは運転席、助手席、後席に設け、側面のサイドエアバッグやルーフエアバッグも、当時すでに考案されていた。
「ただ、当時の運輸省はのりませんでした。『アメリカやヨーロッパでやってる?』と前例を聞くんです。特許だからやっているわけがないのに、それで終わり。日本は研究開発で先頭を切っても実用化は遅い。欧米の技術は信頼するのに、です」(小口氏)
結局、エアバッグ関連の特許を世界14か国で取得したが、実用化には至らず、小堀氏は特許の延長手続きを行わないまま自ら命を絶った。エアバッグは特許の有効期限切れ直後に、ドイツで実用化されている。
「小堀さんは『もういい、やるべきことは全部やった』と言いました。今になってその頑張りが人を救っています」
<取材・文/田幸和歌子>
日刊SPA!
最終更新:3月21日(土)13時51分